2006-06-01 第164回国会 衆議院 教育基本法に関する特別委員会 第7号
○鳩山(由)委員 昭和二十一年の四月の七日、これは敗戦後の最初の総選挙であったかと思いますが、日本自由党総裁、後の自民党の初代総裁でありますが、祖父の一郎が述べた放送用の原稿というものがつい最近出てまいりました。 その中に、まず、自由主義は民主主義の骨組みであって、その自由主義という意味は、なすべきことをなし得るの自由、あわせて、なすべからざることをなさざるの自由と。
○鳩山(由)委員 昭和二十一年の四月の七日、これは敗戦後の最初の総選挙であったかと思いますが、日本自由党総裁、後の自民党の初代総裁でありますが、祖父の一郎が述べた放送用の原稿というものがつい最近出てまいりました。 その中に、まず、自由主義は民主主義の骨組みであって、その自由主義という意味は、なすべきことをなし得るの自由、あわせて、なすべからざることをなさざるの自由と。
まず一点目の、大選挙区で行われました戦後第一回目の第二十二回総選挙でございますが、日本自由党、得票率二四・四%、当選人比率三〇・二%。日本進歩党、得票率一八・七%、当選人比率二〇・三%。日本社会党、得票率一七・八%、当選人比率一九・八%。日本共産党、得票率三・九%、当選人比率一・一%。日本協同党、得票率三・二%、当選人比率三・〇%。
それから一月二十一日は日本自由党案が出てくる、二月十四日には進歩党案が出てくる、二月二十四日には社会党案がでてくるという形で、政党もそれぞれ相互に競合しながら憲法の制定に向かっていく。このあたりは、もう皆さん方は十分お聞きになっていらっしゃるので、私はきょう詳述いたしません。 ただ、私がここで強調したいことは、GHQの文書を見ていくわけです。
憲法学者が、日本自由党、日本進歩党の憲法草案を見ていないというのですから。私は大変ショックを受けましたよ。この人が、学生数が十万人ぐらいいる大学の憲法学の主任教授だという。僕は名誉毀損でも何でも訴えられても構わないと思うのですけれども、これはやはり日本の知的水準がいささか疑問だなというふうに思いました。 憲法無効論、これは学界では決着済みの問題ですよ。
一つは、今おっしゃっておられたように、ワイマール憲法に引きつけて、社会経済的諸条項をつけ加えることが、完備することが、強化することが基本的人権を強化することにつながるんだ、それなくして基本的人権は強化されないんだというこの考え方が、これは特に鈴木義男氏、それから森戸辰男氏、この二人と、自由権でいいんだということを主張する当時の日本進歩党それから日本自由党の先生方の間で議論のやりとりがあります。
○国務大臣(野呂田芳成君) 今、委員が御指摘なさいましたとおり、昭和二十八年の末ごろから二十九年の初めごろにかけまして、防衛庁の前身であります保安庁の改組についての議論が政治の場でなされた際に、当時の与党は自由党、改進党、日本自由党でありましたが、改進党が中心になりまして保安庁を国防省または防衛省とする提案が出されたわけでありますが、二十九年一月の与党間の調整の結果、省とする提案は取り下げられまして
けれども、GHQとか、それからそのときの日本自由党案は、これはアメリカの法案拒否権、アメリカの法案拒否権は両院通過したら大統領が法案拒否できますね、法案拒否できたら両院で三分の二で再可決すれば大統領の反対を覆すと、これを持ってきたわけです。ですから、我が国の今のこの五十九条の根源をさかのぼりますとアメリカの大統領の法案拒否権、これがなんかぷんときたわけです。
御尊父歌治氏は、県下の徳望家として聞こえ、横浜市議会副議長の要職を経て、日本自由党の衆議院議員として御活躍された方でありました。
小沢幹事長のお父さんの小澤佐重喜さん、「日本自由党並びに日本進歩党を代表いたしまして、」と言うて中選挙区単記制の実現についての提案をしている。その提案理由の中で小選挙区制について四つの弊害を言っています。「わが国において小選挙区制で総選挙が施行されたことは、六回の経験をもつ」、「六回の経験の結果は、少くとも次に述べるような欠陥のあることが、」明らかになっている。
昭和二十二年三月二十八日に、当時の日本自由党並びに日本進歩党を代表して、現在の小沢自民党幹事長のお父さん、小沢佐重喜さんが、中選挙区単記制を採用せいという修正案を、これは大野伴睦さんが出したわけですが、それの説明をしているんです。 その趣旨弁明によりますと、小選挙区制というのはこういう点でいかぬのだということを非常に端的に書いています。四点あるというんですね。
その中で、その当時の日本自由党のみが、現在のような形の両院制で三分の二可決方式をとっておりますが、その他の政党、進歩党初め現在の社会党その他はすべて諸外国の例と同じように、もう一度になれば過半数で衆議院を通せばそれでいい、こういう憲法草案を各党出しておったわけでありますが、現実に採用された憲法制度はそういうことになってしまったわけであります。そのときは、共産党は一院制を発表いたしております。
昭和二十年、終戦により我が国の新しい時代の幕明けとなるや、いち早く先生は同志とともに故鳩山一郎先生のもとに相集い、日本自由党の結成に参画し、政党政治の本格的再建へのスタートを切られました。しかし、昭和二十一年、先生にとっては青天のへきれきともいうべきマッカーサーによる東亜連盟協会解散と公職追放の指令を受け、六年余にわたる雌伏を余儀なくされるに至りました。
(拍手) 振り返ってみれば、私の初当選当時の日本は、占領下に置かれ、戦後の国民は混乱と飢えと廃墟の中にあり、政党も過半数を制するものがなく、第一回国会において憲政の常道を開くため、私の属する日本自由党は、第一党の党首片山哲氏を総理に指名し、みずからは野党となりました。 私の最初の総理指名は反対党の片山さんであったことを終生忘れ得ません。
君の産業界に残された足跡とともに政界にしるされた足跡も大きく、戦後、政界入りを志されて、昭和二十一年四月の戦後第一回の総選挙に日本自由党より静岡県第一区から出馬され、四十二歳の若さで衆議院議員に初当選を果たされたのを皮切りに、衆議院議員当選八回、昭和四十九年の参議院議員通常選挙では、全国区で当選という輝かしい足跡をしるされたのであります。
松岡先生は、戦前から私淑していた鳩山一郎先生を助け、日本自由党の結党準備に寝食を忘れて奔走し、昭和二十年十一月の党創立後も、党の基礎づくりに精魂を傾けられました。
しかして、昭和二十年、わが国に平和がよみがえり、政党再建の声が上がるとともに率先してこれに参加し、同年十一月、日本自由党が創立されたあとは、鹿児島県支部の結成をなし遂げて、初代の支部長となられるなど、戦後の混乱の中で、政党政治の再出発のために献身されたのであります。 そして、翌二十一年四月、戦後最初の衆議院議員総選挙が行なわれるや、鹿児島県から勇躍立候補されました。
私はそのころ改進党を代表してこの法案をつくった一人でありまして、いまの西村直己君が自由党であって、中村梅吉先生が日本自由党で、改進党から私が出まして案文をつくったので、マッカーサーなんかから借りた思想ではありません。やはり日本の将来の社会構造やそういう変化を予想いたしまして、こういう文章を入れておいたわけでございます。
あれは三党の政策協定でつくったのでありまして、私は改進党を代表して、それから自由党からは西村直己君が、当時の日本自由党から中村梅吉先生が出てきて、そのほかの諸君と一緒につくった。そのつくった趣旨も、陸海軍がけんかをいたしまして、そして軍政と軍令が分離したり、軍事と政治がばらばらになったのが大東亜戦争の悲劇でもあります。
(拍手) 昭和二十年、戦後の混乱の中で、君は、いち早く政党の再建に立ち上がり、同志とともに日本自由党の創立のために奔走し、同年十一月これが成るや、引き続き岩手県支部の結成に献身されるなど、その活躍はまことに目ざましいものがありました。 昭和二十一年四月、戦後第一回の衆議院議員総選挙に際し、君は岩手県から勇躍立候補されました。
あなたは当時造船疑獄の問題で、これは利子補給法案の修正成立、同予算措置などを含めた謝礼として日本自由党に入った二千数百万の裏献金に、当時の自民党幹事長としてのあなたに、これは第三者収賄の容疑を問われた。その後の検察陣のきびしい追及がなされましたが、昭和二十九年の四月二十日に吉田自民党政府が検察首脳会議に対して佐藤逮捕の延長を申し入れた。翌二十一日犬養法相の指揮権発動が行なわれた。
わが国に平和がよみがえるや、君は、いち早く鳩山氏らと相はかり、政党政治の再建に乗り出し、昭和二十年十一月には、日本自由党の結成をなし遂げ、初代幹事長に抜てきされました。 翌二十一年四月の総選挙において、日本自由党は第一党となり、まさに政権を担当しようとしていたやさきに、君は、不運にも公職追放の指令を受け、自来五年にわたる雌伏のやむなきに至りました。
先生は、戦後いち早く鳩山一郎先生のもとに同志と相つどい、政党政治の再建に乗り出し、昭和二十年十一月、日本自由党の結成をなし遂げ、昭和二十一年四月の総選挙で再び本院議員に復帰されました。 鳩山先生が雌伏を余儀なくされた後は、吉田総裁を助け、困難な時代を背景に、保守政党の強化に苦心経営されたのであります。